実際に行ってみるとわかるのですが、交差点にそれぞれ4件の焼肉店があります。
そこでしっとりと、派手派手しい看板に隠れるようにあるお店「樹樹」。
その代わりになのか、玄関前には「前沢牛使用」の縦看板が。
正直なお店、というのが頭から離れません。
実際のところ、蟹を食べて無口になった事はあっても、焼肉を食べて無口になった事はありますか?
一言で言えば、そんなお店です。
メニューも価格設定も、「倍つけてもいいのでは?」と言いたくなる素材を使いながら、店長があっさりと言い放つのは
「ここは下町ですから」
理屈は合っています。倍の値段を実際につけたのなら、地元の人は来ないでしょう。
ライバル店は信号を渡れば3件もあります。
ちいさな店内の焼き場には、備長炭の代わりに溶岩。遠赤効果を狙うには一番との事。
備長炭に踊らされていた自分が情けなくなります。完敗。いえ、乾杯。
サーロイン、カイノミ、ヒレ。
まだあるのですが、それぞれ特選のものを、意地になって頼んでみると・・・。
ヒレ肉、美しい霜降りになってますが・・・。
既にあっけなく常識を覆されます。
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 特選前沢牛ヒレ |
店長にお話を伺うと、
「契約してる牧場さんからシャトー・ブリアンをわけてもらえると言われたけれど、食べてみると旨みがそこまで強くない。
だったらこっちのヒレ肉の方がおいしいと思ったんです」
シャトー・ブリアンを手に入れる事自体が大変なのですが・・・
普段店長が生の状態で試食しているお肉を、軽く火だけ通して焼いてみると、言葉を失う旨みが爆発します。
確かにTVのレポーターが誰しも言うように、口の中でとろけます。
が、それ以上の濃厚な肉本来のジュースが、文字通りスパークします。
脂はきめ細かくこれでもかとのっているのに、どれもしつこくない。脂の重さを全く感じず、
旨みと甘みのハーモニーがまさに絶頂感。本当に上質なものだけが、こんな現象を生み出します。
こうなったら胃袋が悲鳴を上げるまで、おいしい物だけをいっぱいに詰め込んでみたい・・・
などと不埒な考えが頭をよぎり、次々と箸が進みます。
肉の焼ける、ぞくぞくするようなこうばしい香りにフラフラになりながら、
テーブルに乗ったお皿をキョロキョロと見回して、どれから行こうかなぁと行儀悪く迷い箸。
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 特選前沢牛カイノミ |
「常連さんは味が変わるとすぐにわかる。肉にあわせたタレを毎回つけていますが、そのレベルを保つのが何よりも難しい」
さっとひと刷毛塗っただけのタレですら、肉それぞれの特性を最大限に引き出す為に変える手間。
職人なのか、芸術なのか、むしろ正気では存在し得ないこだわり。
「土日は品切れになるのが多いので、平日に来てくれれば準備はできるのになぁ」
・・・それは、平日だったらこのお肉をひたすら食べてもいいという事ですか?それは許される事なのですか?
普段は厨房に居て、お客様の声を聞けない店長は饒舌です。
そんな店長は、誰が来たかを判断するのに、注文表を見て「あ、あのお客さんだ」と顔も知らずともこっそりと喜ぶ有様。
顧客満足、という言葉が流行っています。
顧客満足の為にだけ、ここまで夢中になるお店には、残念ながらまだ出会っていません。
思わず「原価大丈夫ですか?」と心配して口に出すと、店長がけらけらと笑いながら、
「殆ど原価で出してます。○○さん(某有名人御用達の焼肉屋さんの社長)にも「うちではこの肉は出せない」と言われましたね」
との事。当たり前です、という言葉を飲み込みます。
おいしいものを、おなか一杯に食べて満足して欲しい。幸せな気分になって欲しい。
そんな店長の願いが、一片の肉に集中しています。
通常来店するお客様も、数百円の違いなら、自然に一段上のお肉をオーダーしているという無言の期待と満足の繰り返し。
原価ぎりぎりのお肉ばかりを食べて申し訳ない、とこの場で謝罪したいです。
笑って許してくれた店長に感謝!
今回の写真撮影、取材を受け入れてくださり、実際に写真を見て「うわぁ、うちの子達が綺麗に写っているなぁ」などと嬉しそうに子煩悩(牛煩悩?)の声をあげた店長ですが、パソコンは殆どわからない様子。
今回の取材を持ちかけたところ、OKを出してくれた店長が、尋ねられたのは、
「お客様の声とか、聞けるんですか?」
・・・そうですね、難しい事はいらない、貴方の欲しいのはただそれだけ。
喜んだ顔、満足した顔、ありがとうの声。
厨房で真剣に調理しながら、考えているのはただそれだけ。
韓国の料理を、そのおいしさを伝えて、喜んで欲しい。ただそれだけ。
馬鹿正直過ぎる、純粋すぎる願い。
ありがとうの言葉が出ない時代。
ありがとうと思わせるものが、ここにあります。
文:水野 沙羅
写真:重田 和豊
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